フラメンコで本場NYの大舞台で絶賛
フラメンコダンサーとしてニューヨークで活躍する。
柴田 美奈子
 昨年にはショーの本場ニューヨークの大舞台ラ・ママ劇場で、
また今年の夏にはセントクレメンス劇場で、
フラメンコダンスのショーを実現するまでにこぎ着けた。
プロデュースなども自分で手がけ、大忙しの毎日だったが、

 「大満足本当にいい勉強になりました」と語る。もともとはダンスと無縁だった。
故郷の北海道の短大を卒業後、東京の某病院に看護婦として勤務した。
大腸がんで入院していたフラメンコダンサーの一色啓子さんとの出会いが、
人生を大きく変えた。幼いころから音楽やダンスが好きで、
パーカッションをたたいたり、ジャズダンスを習ったりしていた、
素質を見抜かれたのか、
 「あなたはダンスしてたんでしょう」と一色さんに声をかけられたのが始まりだった。

 一色さんの熱心な勧めもあり、病院勤めたのかたわら、
一色さんが経営するダンス教室に通った。
大腸切除の大手術をを受けたにもかかわらず、
一色さんは退院後間もなく舞台に復帰した。
「あの気力、気迫は驚くばかりで、生まれて初めてフラメンコを見た思いがした」
と振り返る。その後も励まし合いながら練習を重ね、
一色さんの夫が経営するスペイン料理店に出演できるまで上達した。
フラメンコ以外のタップダンスやジャズダンスなどへの魅力も捨てられず、
「何でもいい、ダンスを習いたい」という漠とした思いのまま、
91年に渡米した。ニューヨークで語学学校に通い、知り合ったスペイン人の紹介で、
フラメンコダンス教室にも通うた。しかし正直言って一体何を踊りたいのか、
その時にはまだ自分でも分かりかねていた、という。

 そんなある日、看護婦時代の友人から「一色さんが危ないらしいよ」とし知らされた。
大腸がんの転移し、残りわずかの命となっていた。
渡米後も一色さんからは手紙やダンスを映したビデオをが届けられていた。
それだけに「そんなに病気が悪くなっているなんて知らなくて本当にショックでした」
と語る。取るものもとりあえず、見舞いのため93年3月に一時帰国したが、
一色さんは息を引き取った。

 ●故一色啓子さんの遺志受け継ぐ●
通夜、告別式と手伝っていくうちに、
ぼう然としていた頭の中にしっかりとした意識が芽生えてきた。
「フラメンコを踊ろう」その後は本場のスペインのマドリードでダンサーの家に
ホームステイしながらフラメンコの腕を磨いた。94年に再びニューヨークに戻ってからは、
昼間は働きながらダンス教室に通ったり、ショーに出たりと毎日が続いた。
そして昨年の夏、「ココ・ガールズ」というチームを結成し、
10月には待望のラ・ママ劇場の舞台に立った。

 ニューヨーク・タイムズ紙が二度にわたり芸能欄で紹介したことも手伝ってか、
連日満員の大盛況だった。「ここまでこれたのは一色さんのおかげです」と語る。
フラメンコは一曲踊れば汗びっしょりになる。大舞台の公演は通常1時間40分程度かかる。
「一年に一度か二度行うのが精いっぱい」という。
今も昼間はニューヨーク市内の「日本クラブ」で働きながら、
夜は毎日のようにダンス教室に通い練習を欠かさない。
最近ではフラメンコダンサーを目指す女性から指導を頼まれるようにもなった。
踊っている時は仕事のこともボーイフレンドのことも一切忘れられる。
踊り終わった後のお客さんの拍手が何よりもうれしい。
「これからも一色さんの遺志を継ぎ、ニューヨークでがんばり続けたい」と抱負を語る。

略歴
1968年北海道稚内市生まれ。 札幌旭丘高校、北大医療技術短大卒業後、
東京の社会保険中央総合病院に勤務。
そこで一色さんと知り合った。ニューヨーク市在任。独身。

ホアン
この記事は1998年11月28日読売新聞国際版に掲載された物です。
友人の銀行マンがタイのバンコクで偶然見て、タイから帰国の際に
ホアン一色に持ってきてくれたものです。
現在の柴田美奈子さんはカルメン・アマヤの甥のフラメンコギターリストと結婚して、
お子さんも生まれたそうです、
フラメンコは子供が生まれる1週間前まで踊っていたそうです。
現在現役に復帰しています。

つづく たぶん。


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